工藤浩司オピニオン 公式ブログ


世界を飛び回る日本人   工藤浩司のオピニオン  
by kudo_koji_blog
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工藤 浩司 (くどう こうじ)
1971年青森県十和田市生まれ。

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人体に影響を及ぼさない放射線量について

ここ数日枝野官房長官が「ただちに、人体に影響を及ぼすものではない」というような発言を連発するようになった。聞いていて、違和感が残る言い方である。

逆説的な解釈をすれば、「長期的には人体に影響を及ぼすものである」ということだ。そこをしっかりと理解していきたい。

また、以前はレントゲン1回分というのが基準として使われていたのが、最近は、CTスキャン1回分というのが基準らしい。それは妥当なのだろうか。

現在、よく使われる単位はマイクロシーベルト。たとえば東京であれば1時間あたり0.05程度である。

レントゲン1回で、だいたい50マイクロシーベルトの放射線を受ける。ただ、通常、1年に10回も20回も受ける人はいない。だから、50マイクロシーベルトでも年に数回であれば人体に影響はないというのもうなずける。

たとえば、現在、福島では1時間に140マイクロシーベルトになる場所がある。これは毎時間であるから、24時間外に出ている人がいれば、合計3360マイクロシーベルト。これはレントゲン67回に相当する。

最近、政府が好んで使うCTスキャン1回分という数値。通常のCTスキャンは6900マイクロシーベルトである。レントゲンに換算すると138回分である。つまり、CTスキャンはレントゲンの138倍の放射線を使うことになる。

話を戻そう。政府は基準を変えてはいけない。レントゲン1回分という基準を使うのであればそれを維持してほしい。CTスキャン1回分などというあいまいな基準を使わないでほしい。

文部科学省が説明する一般公衆の年間限度は1000マイクロシーベルトであることをしっかりと確認してほしい。

ここで私が強調したいのはどれぐらいで人体に被害が出るというものではない。私はこの分野に関しては素人である。だが、その素人が耳にして、まったく納得できない説明を繰り返し、それを補強しているのが、現在のメディアであり、政府の発言なのである。客観的なデータに基づいた発表を強く望む。
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# by kudo_koji_blog | 2011-03-20 11:40 | 国際

原発事故について

日本政府は過去数十年間にわたって、原発がいかに安全かを訴えてきた。

今回の原発事故で、日本政府や電力会社が語ってきた「安全神話」はもろくも崩れ去った。

日本政府は言う。「想定外のことが起こった」と。想定外のことを想定するのが、リスク管理というものだ。最悪のことを想定できないのは、そもそも間違った人々が、計画を推進しているからだ。

たとえば、スーパー堤防という計画がある。100年に一度来るかもしれない災害を想定して、土を盛りつけ、通常の堤防では氾濫してしまう状態のときでも、安全につくられた非常に独創的な考えだ。言わば、起こりえない河川の氾濫を想定して、事前に対処しようというものだ。石原都知事が推進していることでも有名だ。

話を元に戻そう。

福島第一原発の場合、そういった災害を想定していないようにしか思えない。本来作動すべき冷却装置等は津波で破壊されたといわれる。「想定外の津波」も想定してほしい。被害にあうのは現地に住む人々であり、近隣に住む人々であり、日本国民全体である。

福島の原発の事故に関しては明らかに人災であると私は考えている。地震や津波は防げないとしても、それに続く事故は防ぐことはできたのではないか。最悪の事態を想定して、施設を作っていない。そこが致命的である。

社会学的に見てみると、世界唯一の原子爆弾の被害国であった日本が、戦後、原子力の力を借りて、日本の経済的復興を担い、先進国となった。その日本が、原子炉が原因で、事故を巻き起こしたことは、日本に学習能力がないことを露呈しているように思える。

我々はチェルノブイリ事件で何も学ばなかったのだろうか。人間は他の事件から学ぶことはできないのだろうか。我々は違う道を進むべきだったのではないか。

もしかしたら、我々は、「神」を操ろうとしているのではないか。我々はそれに失敗した。それだけは確かなことだ。

これから、日本の国力は下降していく。これは今回の事故とは関係なく、そういう傾向になる。だが、下降していく場合でも、緩やかに下降しつつも、他国からは尊敬され、政治的な力を持ちつつ、豊かな国として存在し続けることだってできるはずだ。

西洋の国は経済力では日本より劣っている国が多い。しかし、国としての存在感や政治力は保ったままである。豊かさとはGDPだけでは計り知れないということだ。

今、人は言う。「停電が来るなんて信じられない」と。しかし、他国では毎日停電になっている国もあるのだ。そういう環境に慣れすぎてはいないか。そんなに電気は必要なのか。そういう環境を本当に我々は必要としているのか、もう一度考えてみてもよいと私は思っている。

日本の原発の危機は終わっていない。むしろ、悪化しているとさえ言える。

日本政府は最悪を想定して対処しているだろうか。我々は最悪を想定して準備しているだろうか。「むやみに危機感をあおるのはよくない」とは常套句だが、「むやみに安全をあおるのもよくない」のだ。

繰り返すが、私はこれを人災と見ている。

しかし、同時に、高度な技術力を持った国で起こった出来事は世界の原子炉を保有する国へのメッセージとしてとらえられるべきだと思っている。これほどまでに、被害の大きくなる力を持ったものを人間が、支配できるのだろうか。私には、イエスとは答えられない。
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# by kudo_koji_blog | 2011-03-19 22:47 | 社会

東北地方太平洋沖地震について

3月11日の東北地方太平洋沖地震について、被災者の皆様に心からお見舞い申し上げます。

震災はどの国のどこの人が被害にあっても、悲しいことです。

私は東北出身で、被災地のほとんどに足を運んでいます。生まれ育った青森を含め、宮城や福島は生活した経験があり、その背景からも、馴染み深い場所で、友人もたくさんいます。

このたび、たくさんのメールや問い合わせを国内外かかわらずいただいています。一つ一つ返信することはできませんが、私も含め、東北に住んでいる家族は幸運にも無事だったことをお伝えいたします。

私には私なりの考え方がありますので、この震災に関する意見は別のところで発表していきたいと思っています。

2011年3月19日

工藤浩司
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# by kudo_koji_blog | 2011-03-19 22:35 | 社会

内発的動機に関するキーポイント

先日は、内発的動機(自分が楽しむためなど、自分の中からわきあがってくる動機)について、説明した。

内発的動機の主要な原則として2点ある。キーワードは①自己有能感(自分の実力が向上する感覚)と②自分で決定しているという自己決定感(自律性)。

1点目は自己有能感。日々の努力が、自分の成長につながっているという感覚のこと。

2点目は自律性。それは自分で決定しているという感覚のこと。親や友人が「やってほしい」と言ったからといって、やるようなものは自律性があるとは言えない。

実はもう一つ大切な視点がある。英語でinterpersonal relations というのだが、その意味するところは、自分の存在を受け止めてくれる人のことだ。こういう人が傍にいて、信頼されると、人は内発的な動機が芽生えてくるという。

この点は実はとても重要で、友達が応援してくれればいいというわけではない。親が期待してくれればいい、ということではない。外的なプレッシャーになってしまう。プレッシャーがあると、内発的動機はわいてこない。逆効果になる。

interpersonal relations というのはその人をそのまま受け入れてくれる人のことだ。別の言い方をすれば、受容感が芽生えれば、その人は内発的な動機を作り出すことができる環境が整う。

よくすさんだ幼少期を過ごしたのに大成する人がいる。そういう人の環境を探ると、どこかで、そのような信頼感をつくれる人間との出会いがあるという。条件付でない信頼感をつくれる人間が、内発的な動機を作り出す鍵になる。

たとえば、亀田兄弟を見ていると、上に紹介した3つが、そろっているように思える。外的なプレッシャーはたくさんある。しかし、うまくそれらを無視して、自己有能感、自律性、受容感のある人間関係があるように思える。ここでは、受容感のある人間関係は兄弟そのものであり、父親なのだと思う。だから、いつも、外的なプレッシャーを跳ね返して、努力できるのだと思う。
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# by kudo_koji_blog | 2011-01-15 22:02 | 心理

2011年のご挨拶

皆さん、あけましておめでとうございます。

昨年は自分にとってはいろいろな出来事がありました。

人としてより自分の弱さや問題点を見つめるようになりました。問題点を発見して、自覚し、昨日より今日少しでも高い次元にステップするように生きたいと思います。

当たり前のように聞こえるのですが、自分の弱点を本当に知り尽くしている人は少ないと思うのです。私も自分をまだ知り尽くしていない気がします。そういう意味で、自分の弱点を知る、そして、受け入れる、ということを試みています。

アドバイスが求めらることはよくありますが、今までは、アドバイスで終わっていたような気がします。しかし、昨年は、そのような中でも、他の人へのアドバイスをすぐに、いろいろな状況に置き換えてみることに挑戦してみました。相手が別の人だったら、自分だったら、どうアドバイスをするか、というような視点です。

研究では淡々と続けること、そして、それを楽しむことが重要だと実感しています。できるだけ日々日常の中で、テーマを考え続けられるような環境づくりが重要だと思います。

語学ではあと数ランク上を目指して、精進しようと思っています。自分は書くことにこだわりたいと思っています。第二外国語も、もう少し真摯に取り組みたいと思っています。

武術ではより自分の感覚を大切にするようになりました。そういうことで、40歳に近くなっていろいろ発見することが多くなりました。歳をとってもできる武術を探求しています。

私事ですが、昨年の10月に、子供が生まれました。自分の中で、家族としての役割も強く意識するようになりました。以前より保守的になるのかと思いましたが、より自分らしく生きたい、子供にとって恥ずかしくない父親でありたい、という想いが強くなりました。

育児は「手があいたときに、妻を手伝おう」と思ってやれるほど、簡単なことではないという事実を発見しました。「自分も育児を担当している」と思うことで、初めて、家事の分担ができるようになる自分を発見しました。他の人に通じるかどうかは、わかりませんが、心の持ち方で、育児は楽しくさえ感じられるようになります。

このご挨拶は決意表明ではありません。いつでも臨機応変に変更します。半年後は違うことを言っているかもしれません。それでもいいと思っています。大切なのは、今、自分が何をやりたいか、今、何をしているのか、だと思うのです。

皆さんも自分なりの目標を持ち、今を楽しんでみてはどうでしょうか。
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# by kudo_koji_blog | 2011-01-04 20:05 | 最新ニュース

内発的動機を考える モチベーション低下の構造

最近、内発的な動機ということをテーマにいろいろ調べている。

自分以外の影響(報酬)による外発的な動機では、問題点は二つ。

①外発的な動機は長続きしないこと。②外発的な動機(たとえば試験とか試合)では、大切なプロセスを省いて結果重視になってしまう傾向があること。

サラリーマンの報酬も動機になってしまうと、当然モチベーションが下がる。自己評価や他の人との報酬だけを考えて働くと、仕事に対する本人の内的な動機は下がって当然かもしれない。

外部からの影響について、気をつけるべきキーワードはコントロール(支配)。

外発的な動機は時として効果を発揮するが、それに支配されてしまうと、内発的な動機が下がる。

親が子供をコントロールすることによって、やる気がなくなる、というのはよく聞くことだ。本来は支配せずに、子供を動機付けるはずが、支配してしまって逆に子供の動機が下がることが通常だ。

子供は、「親の期待にこたえたい」と考える傾向があるが、「親からの支配」に呼応している。親が過度に期待することによって、暗に支配をしている状況である。

面白いのは「支配」への反応が、「順応する場合」と「反発する場合」の二つがある。

「親がいい大学に入れ」というから、「一流大学に入りたくないのに入学した」というように、期待どおりに動こうとするのが順応。また、逆に、親が、「弁護士になれ」というから、好きでもないのに、「医者になった」というケースが反発だ。自分の内なる声を無視しているという意味は、根源的には同じことだ。

話を元に戻そう。内発的な動機のキーワードは①自己有能感(自分の実力が向上する感覚)と②自分で決定しているという自己決定感。

そうすると、何をやるにしても、自分で選んで挑戦し、そこで、実力の向上を実感できる、という感覚を持てると、うまく自分の中に取り込むことができる。

だから、人にやらされているようなことも、できるだけ自立的に考えたり、実力の向上を自覚できるようにすると、だいぶ、自分の中のモチベーションがあがることがわかる。いわば、二つの概念の融合である。

本来であれば、内発的な動機というのは武道的な鍛錬の考え方に似ているので、僕らの中にある考えだ。それが、周囲のプレッシャーや社会的な圧力によって、悪影響を及ぼし始めている。今一度、内発的な動機の大切さを考えてみたい。
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# by kudo_koji_blog | 2010-12-20 11:39 | 心理

白鵬が連勝ストップは必然である

今日、白鵬の連勝記録が63でストップした。皆にとっては驚きの事実かもしれないが、私には、あまり驚きではなかった。

なぜかというと、周りがプレッシャーをかけすぎてしまい、本人が、それに呑まれてしまったことにある。

今場所前のインタビューで「今場所の目標は何ですか?」と聞かれて、「数字です」という答え方をしていた。そのとき、私は今場所で記録はストップすることだろうと感じた。

勝負は勝とうと思ったら、勝てなくなる。焦りすぎだ。一戦一戦、真剣に取り組むことが重要で、「勝とう」と思ったときに、隙ができる。相手も必死だからだ。

勝てないなどと思っても、勝てなくなる。自分を萎縮させてしまい、本来の実力が出なくなるからだ。

本来であれば「一つ一つ全力を尽くす」という気持ちがベストであるはずが、勝負を意識しすぎて、隙が出たのではないだろうか。

持ち上げるマスコミにも罪はある。期待ばかりかけて、横綱の気持ちなど何も考えていない。

だが、横綱であれば、マスコミの報道など一喜一憂することなく、淡々と目の前の一番に集中してほしいものだ。連勝記録はあくまで結果論でいい。

横綱は直前まで双葉山の動画をしきりにみていたという。後の先と呼ばれる相手に先行させて反応する戦い方をみていたが、その本質は伝わっていただろうか。身体も心もニュートラル(中間)でなければ予測不可能な相手の攻撃に対して反応などできやしない。双葉山の動きだけでなく、精神も学ぶべきだ。
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# by kudo_koji_blog | 2010-11-15 20:26 | スポーツと武道

海外版 オレオレ詐欺にあいました

何年も会っていない海外の友人からこんなメールが届いた。

I Hope you get this on time. My family and i had a trip to Spain for a short vacation, we were robbed on our way to the hotel we lodged, all cash,credit card and cell were stolen but luckily for us we still have our lives safe and our passport with us I want you to assist me with a loan of 1450 Euros to sort-out the hotel bills. I've been to the embassy and the Police here but they're not helping situation matters. I'm having problems settling the hotel bills and the hotel manager won't let us leave until we settle the bills. Am freaked out at the moment.

簡単にいうと、スペインで追いはぎにあって、財布もカードもなくしたので、1450ユーロのお金を送ってほしい、という。彼は、私の元生徒で、軍人だった。私にとっては貴重な存在だったので、なんとかしたいと本当に思った。

私は彼にホテルの電話番号を送ってほしい、とメールを送った。本人かどうか直接話して確認するためだ。アドレスは確かに彼のものだったが、どこか、信じられない気がした。i が小文字だったからだ。通常、I は大文字で使う。小文字で使うのはnaitve でくだけた表現をする人だ。「freaked out」?彼はこんな表現をメールで使うだろうか。

筋金入りの軍人が、そういう目にあうものか・・・とも考えた。しかし、家族が一緒か。私でも家族が一緒であれば、お金を差し出すだろう。だから、おかしくはない。

「あなたは本当に彼なのか」「私とあなただけしか知らない思い出を教えてほしい」とやりとりをした。

相手は「イズミルの大学での思い出がある」といって、早くお金を送金してほしい、という。

私の中で、心にブレーキがかかった。私が彼とあったのは、キプロスの大学であって、イズミルではない。

極めつけのメールを出してみた。「僕の子供を覚えているかい?」返事はなかった。当時、私に子供はいないからだ。

なんとか、フェイスブックで、彼のページを探してみると、彼の電話番号があった。国際電話でかけてみると、彼が出た。

彼は元気だった。誰かが、彼のメールアドレスを乗っ取って、詐欺を働いているということだった。あせっていた私は一安心した。

海外版のオレオレ詐欺。私が被害者になるとは思わなかった。何事も緊急に対応するのは良くないことだと再確認した。
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# by kudo_koji_blog | 2010-11-10 00:29 | 社会

二極化現象を考える

ここ数年、雇用形態が二極化してきているようだ。

二極化とは雇用される人間たちが、一方では経歴・実力ともに備わった人間たちであり、もう一方では、新卒の人々も含めた経歴・実力がまだ備わっていない人たちの二つに分かれ、その間の人間たちが少なくなっていくことだと考えている。

経歴・実力が備わった人間たちは、企業で重宝される。即戦力で使える人材になるし、トレーニングなどする必要もない。そういう人種は、数年、会社にいればそれでいい。また、別の場所を求めていく。そして、新規の場所ではさらによい待遇で、雇用されることになる。

アグレッシブ(積極的)な会社では、新卒の学生を採用しないようになってきた。それは、トレーニングに時間と費用がかかるからである。そして、長期雇用が約束されないような社会になってきたので、新卒の人間を1~2年かけて育てたところで、転職しないとは限らない。

だから、新卒の学生を雇用する企業が少なくなってきているのだ。

新卒の学生のことを考えてみると、機会がないから、雇用されない。雇用されないから、実力や経歴が伴わない。ゆえに、企業からは魅力のない人間だと見られてしまうことになる。

これは問題ではないだろうか。

新卒の学生が育たない企業風土は、雇用の弾力性がなく、長期にわたって、拡大し、繁栄していくことはできなくなるのではないだろうか。一部の人間だけが、実力をつけて雇用市場を寡占していくような社会は、理想の社会ではない。チャンスは誰にでもあるべきだからだ。

日本は、「勝負」がテーマとされて、「勝ち組」だとかいう人たちが、もてはやされるような社会になってしまった。一方で、チャンスがない社会になってきた。新卒の人間たち、経験や実力がまだ備わっていない人間たちを受け入れる土台を国は推進すべきだと思う。
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# by kudo_koji_blog | 2010-09-26 02:52 | 社会

友人と知り合いの狭間

以前、一緒に働いたことのある人(Aさん)から電話があった。

私は最初とてもうれしかった。なぜなら、仕事関係がなくなっても、私という人間に何か興味をもってくれるからに違いない・・・私はどこかでそう思ったのだろう。

だが、それが一瞬にして崩れ去ることになった。Aさんは電話で続けた。今、保険の営業をしていて、私に、保険の話を聞いてほしいという。

私はいやな予感がした。宗教、保険、マルチ商法・・・それらの勧誘をしてくる人で、私と関係が続いた人はいないからだ。

なぜか。こちら側の自由意志を認めないからだ。論理は決まって、「このほうがあなたのためになるのに、なぜそうしないのか」になる。結局は、自分は善、あなたは悪、という形での説得だろう。

「宗教は受け入れないのか?」と思われるかもしれない。宗教ではないのだ。宗教を信仰している親友はたくさんいる。むしろ、多数かもしれない。本物の信仰者は人には勧めないのだ。

問題は、それらの勧誘だ。保険も同じ。保険はいいのだ。私の周りにも保険関係で働いている方はたくさんいる。だが、人間関係を土台にした勧誘は気をつけたほうが良い。

結局、「話を聞くだけでいいから・・・」ということで、会うことになった。私はがっかりしたと同時に、Aさんと会うことをためらっていた。

ミーティング当日。

偶然、Aさんと知り合いの方(Bさん)と会う機会があった。そして、何とはなしに、Aさんの話になった。そしたら、Bさんは「あっ、保険の勧誘ですよね?話を聞くだけでいいからとかで会いましたよ」と私に言った。

私は自分がなさけなくなったと同時に、やっと構図が見えた気がした。Aさんは知り合い全員に連絡を取ろうとしていただけにすぎなかったのだ。私はただのone of themだった。しかも、「話を聞いてほしい」と同じ手法だった。

私は何かできることはないか、とどこかで考えてしまっていた自分が恥ずかしくなった。

私は本当にがっかりして、土壇場になって、ミーティングをキャンセルすることにした。罪悪感はまったくなくなっていた。

私の言いたいこと。知り合いとして私と付き合おうとするなら、私は一秒も使いたくない。

友人として付き合おうとするのなら、最初からそう言ってほしい。「困っているんだ。失礼なのはわかっている。でも、他に方法がないんだ。助けてほしい」と。

だが、友人関係ができていないので、これもおかしな話した。結局、どちらから考えてもおかしいのだ。

間違ってほしくないのだが、私は、真の友人が頼んだのなら、保険の契約などすぐに了承するだろう。友人が困っているのに、その程度のことで、救われるのなら、喜んでするだろう。

だが、今回は友人ではなかった、ということだ。私のほうでも、間違った期待をしてしまい、非常に疲れてしまった。

私にとっては友人と知り合いの狭間にいる人は皆知り合いである。そこには明確なラインを引いている。その代わり、友人となったら、私にとって意味が違ってくる。今回はそんな狭間にいる人からの電話だったのだ。彼からその後、連絡はない。
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# by kudo_koji_blog | 2010-08-29 00:55 | 人生