工藤浩司オピニオン 公式ブログ


世界を飛び回る日本人   工藤浩司のオピニオン  
by kudo_koji_blog
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工藤 浩司 (くどう こうじ)
1971年青森県十和田市生まれ。

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<   2007年 06月 ( 4 )   > この月の画像一覧


久間防衛相の「原爆投下、しょうがない」発言について

6月30日、久間防衛相が、麗沢大学で講演して、米軍が日本に原爆を投下したことについて「原爆を落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で今、しょうがないなと思っている」と述べ、波紋を呼んでいる。

私はこの発言を聞いたとき、何も驚かなかった。なぜかと言えば、日本人を観察すると、日本人の原爆体験をよく表しているように思えるからだ。

では、この発言は妥当だったのか。妥当ではないだろう。政治的な発言をそのまましてしまうところに、防衛相の落ち度があり、その資質には疑問がつきまとう。

だが、この問題はそこだけにとどまらない。

この問題は、日本人が、原爆投下の責任を追及してこなかったという事実に焦点を当てるものであった。日本人は中国人や韓国人と違い、戦争犯罪の訴追をしてこなかった。アメリカで裁判ができるにもかかわらず、である。歴史的に言えば、国際法的に違法であると証明することはいくらでも可能であったのだ。

今まで、私は多くの外国人に質問されたことだ。「なぜ、日本人は原爆投下の張本人の国と仲良くなってしまったのか?」と。

日本人はアジア諸国に対して罪悪感がある。その感情と、原爆投下に対する被害意識と一緒にしてしまっているのだ。日本人は「原爆は許せない」という割には、何の行為もしてこなかったし、米国での裁判もやってこなかった。政治家の発言があったから、怒りをあらわにするが、だからといって、60年前の行為について、アメリカで裁判を起こそうという気概は感じられない。

原爆の問題を腫れ物を触るように扱ってはならない。今回の問題をタブー視してはならない。日本人がタブー視することなく、原爆を見つめるべき時期が来ていると私は信ずる。
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by kudo_koji_blog | 2007-06-24 03:48 | 国際

親に殺されたイスラム教徒の女性の話

イギリスで、先日、こんな事件があった。親が決めた結婚相手と結婚せず、他に恋人を作ってしまったイスラム教徒の女性がいた。彼氏が出来たことが親に見つかり、その人は「親に殺される」と4回も警察に届けたのであるが、警察に取り合ってもらえず、結局、その女性は親に殺されてしまったのである。注意するのは彼女は浮気をしたわけではないのである。婚前交渉自体が「問題」とされているのである。

保守的なイスラム社会であれば、こういう類の話は腐るほどあるのだが、知らないとピンとこないかもしれない。だから、イギリスの警察も、絵空事だと考えたのだろうが、それは現実のものとなった。

彼女の「問題」は何だったのか。親の予定した結婚相手と結婚せず、婚前に他の男性と関係を持った、ということが、「反道徳的」とされるのである。

こういう話はイスラム諸国の田舎に行けばいくらでもある。しかも、どちらかと言えば、男性側ではなく、女性側が被害を被っている。殺しに来るのは親なのであるから、恐ろしい。

以前、日本でも似たようなことがあった。パキスタン人と付き合っていた日本人女性。彼とつきあった後、「別れたい」ということを告げたという。それを聞き、このパキスタン人の男性は激怒し、彼女は殺されてしまった。これは実際に日本で起こった話である。

もうひとつ。パキスタンの一部では、レイプされた女性は家族によって殺されたりしていることが、人権団体から報告されている。どれだけの数になるのかは定かではないが、珍しいことではないようだ。しかも、加害者側のほうは、逮捕されなかったりするという。

英語ではhonor killing(名誉の殺人)と呼んでいるのだが、どうもその翻訳には納得がいかない。ただ、イスラム諸国の場合、そのような殺人を犯しても、逮捕されなかったり、逮捕されても、軽い刑で済まされることが多いという。

文化は相対的に見なければならないから、文化の是非は問わないが、この事件はイギリスで起こったのだから、非難されて当然である。捕まった親も、軽い刑で済まされることはないだろう。

この事件を機会に考えたのであるが、異文化を接したときに、その文化を極端なまでに持ち続けるのはマイナスになると考える。自分のアイデンティティを維持するのはすばらしいことであるが、そこが、自分の国だと錯覚するのは間違っているだろう。

また、相手に文化の理解を求める場合、相手がそれに同意していなければ、どんな価値も意味のないものに終わってしまう。一番最初に紹介した女性の場合、すでに保守的なイスラムの文化には賛同していなかったのであるから、そのように期待するのは無意味だったということだ。
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by kudo_koji_blog | 2007-06-13 09:50 | 国際

「風の男 白洲次郎」 青柳恵介著

日本人だったらぜひ読んで欲しいと思う本のひとつに「風の男 白洲次郎」(新潮文庫) 青柳恵介著がある。理由は自分の哲学に忠実に生きる人間が描かれているからだ。哲学とは自分の主義という意味だ。

たとえば、「人間を平等に扱う」というものがあるだろう。平等に扱うということは、赤ちゃんから、老人まで同じに扱うということだ。社員でも社長でも同じ価値を持って扱うということ。それがこの哲学の体現をするということにつながる。

白洲次郎を語るのにどこから語ればよいか、分からない。なぜなら、この人の注目すべきところは終戦連絡事務局次長になったとかそういう「功績」ではない。言って見れば、生き方・態度・言葉そのものが白洲次郎を体現し、そして、白洲は出会ったたくさんの人々に愛されたという事実だけなのだ。

本の言葉を借りよう。

「自分の目で見たことに立脚し、自分の頭で考え、自分が人に話したことにはきっちりと責任をとるという個人主義・自由主義」(P64)

それが、哲学に忠実に生きる人間ということだ。

現代社会において、自分の考えを持ち、それを体現していくことほど大変なことはない。周囲がそうさせないし、社会では認められない。これでは、自分の哲学を持つことが、「悪いこと」という誤解をしてしまう。

そんなとき、白洲次郎の生き方が手本になる。風のように自由でありながら、凛とした態度が佇んでいる。そこにはわれわれが忘れてしまった何かがある。

日本人には読んで欲しい書物のひとつである。

個人的なことであるが、本書を読んで、私が、今、イギリス社会を実際に数年経験して、白洲の感じたこととの違いが2つある。

戦前、まだ国力のあったイギリスにおける上流階級と接した白洲次郎。だが、今は、国力を失い、持つべき文化が崩れかけている現代イギリス。現代のイギリスには上流階級は社会をリードしていくという気概を失い、流れ込む移民で右往左往してしまい、自分たちの社会だけを維持していくだけに終始し、自己中心的なものに変化してしまった。

大学についても、白洲はケンブリッジ大学で学んでいるが、私はレスター大学だ。レスター大学の法学博士課程になるとイギリス人はほぼいない。すべて留学生が占める。イギリスのエリートには会う機会はないのである。これはこれで、たくさん学ぶことがあるのであるが、こうした社会背景の違いは感じざるを得ない。イギリスエリートの自体の数はどんどん小さくなって来ているのである。

純粋な古き良きイギリス文化に接した人間からのメッセージを読み取るには格好の本である。
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by kudo_koji_blog | 2007-06-06 00:09 | おすすめ

女性の発言を考える・・・悪しき民主主義の影響

先日、友人とその彼女とご飯を共にする機会があった。私の友達は男性側のほうで、女性のほうはその彼女という関係。

そこで、私が気がついたのは、その女性、テーブルでディナー中に、少しでも自分でおかしいと思うことがあれば、すぐに反論してくることだ。それは、相手方だったりすることもあるし、こちら側にそれが向いてくることもある。しかも、話題が日本の批判であったりするわけだ。それはある意味で、民主主義下の若い女性で典型的な反応だとも言える。

私は反論を試みるも、友人に遠慮して深追いはしない。あまりおかしすぎるのであれば、ちょっと意見を挟むが、基本的にはそのままにしておく。それが、友人へのリスペクト(敬意)でもあるからだ。

ところが、よく観察してみると、その女性は私が遠慮していることはわからないようだった。また、彼女から彼への反論で、私はやり場のない時間も過ごした。これは、ある意味で、民主主義下の女性の悪い部分を象徴しているように思える。「発言する権利がある」ということは「どこでも何でも言いたいことを言う」のとは違う。そのあたりの感覚がないようだ。これは、国際コミュニケーションではマイナスである。時に発言せずだまっていることも、賢いと判断されることもあるのである。

個人的な話になるが、私は妻が、私の友人の前で、私に反論してくるようなことはいい事とは考えていない。もしそういうことがあったら、友人がいなくなった後で、「あれはよくない」とたしなめることだろう。なぜなら、私にも面子というものがあるし、友人からのリスペクトもあるからである。

同様に、私が妻の友人と会っているときは、いちいち、目くじらを立てて、妻を追い込んだりはしない。それは私が妻と彼女の友人関係に対して、リスペクトを払っているからである。

東洋的だと言ってしまえば、それまでであるが、ここは大切なことだと思う。そういったリスペクトを大切と感じてくれる女性でなければ、男性の前で黙っていることをすべて「負け」と捉えてしまって、扱いにくい。必至になって反論していく人を見ていると、哀れとすら感じることもある。

最後に、西洋でも、やはり教育されている女性は人間関係を気遣って発言をしてくる。言いたいこともがまんしたり、気を使ってくれたりするような感覚は確かに存在する。こちらがまずいご飯をつくって、出したとしても、「おいしい」などと言って、全部平らげようとした人も本当にいる。そういう人のほうが、意外にもコミュニケーションはしやすいのだ。

コミュニケーションにおいては極端な気負いは禁物である。ただただ、発言すればよい、というものではない。相手が本当に何を欲しているか必至で考える。相手がこちらの批判を期待しているときには、どんどん発言し、そうでないときは発言せずに話を聞く。そのTPOをわきまえることが、機転の利いた楽しい会話を作りだす。

最近、気がつくと、私よりも相手のほうがより多く発言していることに気づく。時には8:2ぐらいの割合のことがよくある。それでも、安心して話せるというような感覚が生まれているのだろうか。気負わなくても、うまくコミュニケーションはとれていると私は考えている。
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by kudo_koji_blog | 2007-06-03 05:21 | 社会