工藤浩司オピニオン 公式ブログ


世界を飛び回る日本人   工藤浩司のオピニオン  
by kudo_koji_blog
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≪PROFILE≫
工藤 浩司 (くどう こうじ)
1971年青森県十和田市生まれ。

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<   2006年 02月 ( 4 )   > この月の画像一覧


アジア人としての感覚はあるか?

先日、私の授業を受けているアジアからの学生の友人と話をする機会があった。私の授業を受けているアジアの学生は私のことをよくほかの友達に話しているという。その後の説明を聞いてはっとした。「だって、あなたはアジアから来たのだから」

 北キプロスに日本人はいない。中国人もいない。タイやベトナムもほとんどいない。逆に、カザフスタン、キルギスタン、ロシア、トルコなどの学生が多くなる。西洋なれしていた私にはとても魅力的な国籍ぞろいになる。

 そのような中で、東アジアや東南アジアから来た人たちというのはアジアとしての感覚は強いのかもしれない。カザフスタンやキルギスタンはアジアに含められるが、心理的一体感は外見に反して、東アジア人とは少し薄れる。私一人の存在を見ることが他の東アジア人学生の意識に何かのよい影響を与えられるのであれば、それは否定はしないし、喜ばしいことなのかもしれない。自分の能力や立場は、決して納得は言っている状況ではないのだが、それとて、言われていやな気はしない。

 日本人はあまりアジア人という感覚がないのかもしれない。

以前、ある欧米の大学で、中国人の講師が講義をしたことがある。講義の内容はあまり質のいいものではなかった。学生たちは英語の発音などをバカにしたりし始めていた。そんな時、中国人の取った行動は面白かった。席の一番前に座って、彼に質問をして彼を盛り上げていた。私は、その場の彼らの気持ちが痛いほどよく分かった。外国人しかもアジア人が欧米で講師になる。そんな彼を応援したいし、バカにされたくない、という感覚を私も共有していたのを覚えている。つたないながら、私も真面目に質問をいくつかなげて盛り上げる方に回った。

その時、数人いた日本人はバカにする学生と一緒の立場をとるか、それに反対はあえてしなかった。最後の講義についての評価もずいぶんと厳しいものだったと聞いている。それはそれでよろしいのであるが、アジア人という意識が彼らになかったように思われるのだ。

前回のオリンピックの際、短距離でアジア人が始めて、金メダルをとった。中国人が110メートルハードルでのものだった。これはアジア中から賞賛されてしかるべきであるが、そうなっているだろうか。

あるいは、国際陸上大会で、末次選手がアジアで初の100メートルで銅メダルをとった。国としては別々のものであるが、アジア人としては同じものだ。アジアとしての価値がもっと語られてもいいと思う。

われわれは、国際社会や世界を語る前にアジアを語るべきだ。国家枠を無視した世界観が、未熟なように、アジア枠の欠ける世界観は未熟ですらある。アジアに共通の価値や感覚は確かに存在するし、それはけっして悪いことではない。地域に密着した国際感覚は共同体意識を生むし、お互いの利益を尊重することにもなる。ヨーロッパでは50年の歴史をかけてヨーロッパ共同体を段階的に発達させてきたようにアジア共同体を発足させるのも夢ではない。
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by kudo_koji_blog | 2006-02-16 17:48 | 国際

時間が過ぎるのが遅いという感覚

昨年、講演の機会に同世代の受講生と話し合う機会があった。講義の後、私についての今の自分の生き方への感想を聞かれて、私は「時間が過ぎるのが遅すぎる」という答えをした。同世代の受講生の一人は「それは一生懸命生きていないからではないですか?」などという反応をした。

だが、私が感じていたのは、自分が一生懸命やっているとか、そういう類の感覚ではない。私には、一生懸命やっているかどうかというのは考えない。本当に真剣な人間は自分が一生懸命やっているかどうか、など感じもしない。不十分ならもっとやればいいし、足りなくてもできないようなら今の自分とつきあっていくしかない。そういう問題を考えること自体に、意味を感じなくなった。

20代後半以降の人間は、戦争にでも行かない限り、それほど変わらないのが通常だろう。

ただ、「もっと早く過ぎてほしい。自分はこれだけしかできていないのか? あとどれだけ達成すれば自分の目標が達成されるのか?」そんな感覚だけが残っているのである。

 最近もある失敗をした。失敗の原因が分かっているので、さほど驚きはしなかった。今の自分が、あと数ヶ月、あとであればうまくいっていただろうという失敗だったので、悔やまれるものだった。今の自分としてはとてもどうにもできない、という思いもあるのだが、早くもっとステップしていれば・・・という思いはいつもある。

 一般的に言えば、「時間が過ぎるのが遅すぎる」というのは怠け者のセリフの代名詞のように思われているのが、実は、私もそういう感覚が日ごとに強くなっている。「もう少し時間が早く過ぎていたら・・・」「あと1年早くこの挑戦をしていたら・・・」そういう思いが頭に常にある。時が早すぎるだけで「失敗」と考えられることだらけの世の中に、反発したいという思いなのかもしれない。

 この点について苦労の感覚という面から考えてみたい。私が大学時代、空手を一緒に学んだ先輩の一人が2~3年前全日本選手権で優勝を果たした。その先輩が10年前によく言っていた言葉を思い出す。「明日が来るのが怖い」と。これは、もがき苦しむ人間の時間の感覚が遅いということと同じように思われる。

 現実の世界にはドラスティックな毎日はなく、単調な毎日の連続である。同じ量の労力を払い、仕事や勉強、運動をこなしていく。そのような感覚を本当の意味で知っている人には決して、「時間は早く過ぎる」ものではなく、「時間が過ぎるのは遅い」のではないだろうか。
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by kudo_koji_blog | 2006-02-14 18:18 | 人生

人生の視野について~小さな目標を立てるのはよいことか?

「R25」(2005.12.22、74号)に元レスラー高田延彦氏のインタビューが載っていた。

「僕の経験から言えば、あまり先を見ない方がいい。道は短い距離で区切りをつけて歩いていった方が、達成感を得やすいし、小さな達成感を持って前へ進んだ方が、モチベーションを落とさずにいられる。ものすごく遠くに大きな目標があっても、人間って疲れてしまうもの。大きな目標を立てるのは間違っていないけれど、小さな区切りをつくりながら進んでいくべきだと僕は思うんだ」

レスラーに関しては私はあまり詳しくはないのだが、どちらかと言えば、秀才で努力派のタイプの人間の発言であり、誰にでも適用可能なので、この発言に学ぶところは多いと考えている。

大きな目標を持つことは絶対必要だと私は考えている。それは大きな道しるべにもなるし、価値判断の基準にもなるからだ。価値基準がなければ突如として現れた問題に対し、対処することができない。

また、大きな目標を持つことは別の意味もある。小さな目標の積み重ねが、その大きな目標への道と合致しなければならないし、ある程度の積み重ねで達成できるという感覚がなくなってもいけない。

注意すべきなのは、大きな目標を持つことの怖さは達成感のなさである。10年、20年かかって達成するような目標を立ててしまうと、1年たっても、2年たっても、変わらない。成長しているはずなのに、何も変化がないようになってしまう。そういうときはモチベーションの向上について、気を配らなければならないだろう。

高田氏の発言のように、小さな目標を立てて、達成させて自分を鼓舞するのもよい。あるいは、似たような環境のものを友に持ち、競い合って、一喜一憂するのもいいだろう。私も、論文を書いたり、出版したり、生徒と議論したり、友を持つことで、そのモチベーションを何とか維持させている。

小さな目標を立てる時、目の前のものだけを毎日やっていれば、それだけで満足してしまうという弱点もある。前向きな人間が自分の目の前につらい目標を立てていくのは意義があるが、後ろ向きな人間が逃げるために小さな目標を立てるのには反対だ。小さな目標を100達成しても、たいした成果がないことなどよくあることだ。結局、小さな目標というのは立て方によるのだと考える。

1日、1週間、1ヶ月程度で、達成できそうでできないレベル。そこが目標を置く基準と言ってよいのではないだろうか。
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by kudo_koji_blog | 2006-02-02 20:44 | 人生

日本における妻の立場

見知らぬ人と出会い、人に妻を紹介することが多くなった。海外でそういうことは多々あるが、日本ではあまりなかったのだが、日本で気になったことがひとつある。「こちらが妻の~です」と妻を紹介することが、日本ではあまりない。いや、あったとしても、儀礼的なポーズで終わり、わざわざ対話までしてくる人はいない。妻がポツリと「日本人ってあまり自分の奥さんを他の人に紹介しないのね」ということを言ったことがあるのだが、それも当たっているように見える。

妻の見方は面白い。「こちらが妻の~です」と紹介されたとき、相手が妻の目をきちんと見るかどうか。それで相手の礼儀度を観る。妻が相手を見ているのに、妻の目をみないような人間は礼儀を無視して、利害関係で人を見る人間の部類に入るのだろう。妻を紹介している私の言葉も聞いていないことになるのかもしれない。

ここキプロスでは妻は名前で呼ばれる時もあるし、Mrs. Kudo と呼ばれることもある。妻としての敬意が払われるときはMrs. Kudo(ミセス・クドー)となる。ミセスが今では差別用語だとしか理解していない人は、これが敬意を払われている表現だとはわからない。ミセスは結婚関係に敬意を払うときにはぜひとも使うべき言葉である。だから妻が大学などで、誰かに紹介されるときはほぼ例外なく、ミセスが使われている。

結婚という関係を無視して独立して女性を扱うときはMs. Kudo(ミズ・クドー)となる。たとえば、結婚しているからと言って、女性である教授や講師にむかってミズもミスもいただけない。使うべきは職業としてのProfessorやDoctor であって、結婚を意識した言葉ではない。職業が確定していなければMs.(ミズ)を使うのが適当だろう。

以前、教授の家に招かれたことがある。奥さんが料理を作ってくれた。その場合、教授が夫なのだから、婦人にはミセスが適当になる。夫の目の前で、結婚しているという事実を隠してミズにするような状況ではない。

日本において、総じて妻の立場というのはひとつ後ろに置かれてきた。だからといって、そこをないがしろにしてもいいというわけではないだろう。それそうおうの敬意というものがあっていいと思う。
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by kudo_koji_blog | 2006-02-01 19:20 | 社会