工藤浩司オピニオン 公式ブログ


世界を飛び回る日本人   工藤浩司のオピニオン  
by kudo_koji_blog
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≪PROFILE≫
工藤 浩司 (くどう こうじ)
1971年青森県十和田市生まれ。

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カテゴリ:議論( 8 )


意見が絶対ではないということへの返答

意見が絶対ではないということ:そして、ここまで考えてくると、お気づきになるかもしれませんが、こういうように返答している私も、絶対ではない、という制約を受けることになります。

ですから、他の人の意見を読み・聞き、それを判断されるのは、読者や参加者の方自身なのです。良いという部分は取り入れ、悪いという部分は質問して、おかしければ取り入れない。自分でよいと思っても、おかしければ修正する。そういった落ち着いた態度こそが、自分の教養を高めてくれると私は考えています。ですから、教えたり、書いたりするほうも、同じく学びながら切磋琢磨するということになります。
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by kudo_koji_blog | 2007-07-25 07:59 | 議論

討論の技術についての返答

質問への回答を公開します。

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討論の文化と別に、討論をする技術というものは存在します。具体的にはいろいろあるのですが、一番根底にあって、みとめなければならないものは「別な観点からの意見はおおいにありうる」ということです。なぜならば、異なった意見は異なった価値観から作られることが多いので、そういう場合、多文化が混ざっているアメリカやヨーロッパでは当然のごとく受け入れられるでしょう。人種や国籍が違う人が多いのだから、価値が違ってもおかしいことではありません。

それ以外の技術の点については、語弊をはばからずに言わせてもらえば、日本人も欧米人も五十歩百歩です。日本人の討論技術もしっかりとした指導者が教えれば、まったく問題ないと考えています。できれば異文化体験をされた方のほうが、よりよい討論技術が学べるかと考えています。
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by kudo_koji_blog | 2007-07-24 08:56 | 議論

大学での討論についての質問への返答

大学での討論についての質問があり、それに対しての返答を書きましたので、ここでも公開します。

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日本人のコミュニケーションの弱さや大学での討論技術の機会のなさが、よく言われますが、私は大方の見方と少々違った見方をとっています。

日本の大学では確かに、討論技術は教えませんが、欧米の大学とてそれはあまり変わりがないように感じています。アメリカの大学とくに学部ではスピーチのクラスがあったりするようですが、現実にはせいぜい1つか2つのクラスだと思うので、1つのクラスだけで、生徒の討論技術が大きく変わるというものではないと思っています。

ですが、どうみても、日本とアメリカと教育を受けたものの討論力の違いは歴然とあるのですが、それはアメリカの大学・大学院の場合、「授業が討論そのものである」ということにあると考えます。簡単に言えば、質問と返答ですね。それを4年間なり、2年間、みっちりと体験するわけです。これは「洗礼」という言葉がぴったりなのです。大学は知識を提供するところではなく、自分で学んだ知識を生徒や教授と討論して、真理を発見するところ・・・という位置づけになります。

ですから、お知り合いの中国人の方のいう「中国では討論のクラスで、その技術を学ぶ」というのは、私にとっては妥当ではなく、質問や返答がよくなされる環境にどれだけつかっているかが、鍵になるように感じているのです。自己主張をしていく文化はあるかもしれませんが、中国人がとりわけ対話する技術を持っているようには感じてはいないです。

私自身も、アメリカのロースクールで学位をとっていますが、そこで、討論のクラスがあるわけではありません。しかし、授業は討論そのものです。アメリカの学生は「うるさい」と思うぐらい質問してきます。そういう中で私も1クラス3回以上発言というルールを課して「じゃまなやつだ」と思われるぐらい参加してきました。それが、討論の文化を身体で体感するということなのです。

そういう意味で、どういう指導者と接し、仲間と話をしているかが、大切なことだと考えています。
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by kudo_koji_blog | 2007-07-23 09:30 | 議論

批判的であることとの意味・・・西洋にいる間違った学者たち

先日、インド人の博士と話をした。とても斬れる女の人で、かなり刺激を受けた。詳しくはわからないが、バイオテクノロジーにおける法律を専門にしているらしい。以前の監督者とはウマがあわず、新しい監督者に代えてもらって、博士号を今月取得したという。

博士はインド的な視点を入れた発想で、人権を捉え、それを論文化しようとしていた。だが、以前の監督者はそこに価値を見出すことはできなかったという。西洋だと西洋のアプローチしか認めないことも多く、インド的な発想で人権を理解したり、分析しようとすると、受け入れない教授がいると聞いた。彼女にとってはそこが大切だから、そこを重点的に書きたいのだが、前の教授にはぜんぜん評価されず、結局、指導者を変更して、それを成し遂げた。

西洋も東洋も視点やアプローチが絶対だと思っていると間違った方向に進む可能性がある。

人権をインド的なアプローチから考えてもいいだろう。それを理論家して、守っていけるのならそれでいい。それが視点だからだ。

ここは非常に大切な点だ。友達に、とある国から来た研究生がいるのだが、やはり「自国の法律ではこうです」というような感じで、説明をすると、「それは違う」なんて否定されてしまうらしい。それはイギリスの考えで外国を裁いているに過ぎない。すべての国が自国と同じとは限らない。

私の国の法律ではこうなっている、こういうアプローチをするっていうのは別にそのまま認めてもいいと思うのだが、それができない。そしてそれが西洋の学者なのだから驚く。どうやら、東洋のやり方にしがみつく学者がいる一方で、西洋の考えしか認めない学者もいるということが最近分かった。

冒頭の話に出た博士は「西洋に来て、そのやり方とインド的なアプローチの両方を知っているから、私たちのほうが上です」と私に言っていたけれど、まさにそのとおりだと思った。わからないのは西洋がすべてだと思っている教授たちということになる。

つい2~3日前にこんな話を聞いた。友人が、「イスラム法においては知的所有権が成り立つか?」というプレゼンをイギリスの大学でしたらしい。そこで、2人ばかり女の講師が、「イスラム法は法じゃない」と反論してきたらしいのだが、そのやり方を聞いていたが、どうも大学の講師とは思えない態度だった。自分が正しいとばかりの勢いで、相手の意見をはなっから認めない。それでは対話など成り立たない。「~は法ではない」というのなら、「法とは何か」を定義してから、質問してほしい。しかも、「イスラム法は法か?」という点はプレゼンのテーマからはずれている。

プレゼンをした私の友人も、さすがにカチンときて、「だったら、この国で、イスラム法の科目を大学で受けている人たちばみんな馬鹿っていうことかい?」といい、その講師をやり込めた。どちらが優位に立ち、聴衆を見方につけることができたかは、一目瞭然だっただろう。

プレゼンのタイトルと話を聞く限り、面白い発表だと私は思う。反対が出る。それでいい。議論すればいい。ただ、発表者がどれだけそこに対して、守っていけるかどうかなのだ。

結局、その2人の講師だけ、友人の発表に対して、poorの評価をしたらしい。皆はexcellentという評価をしたらしい。それがすべてを語っている。反対が出るほど面白い、という評価をすべきなのに、当の本人が「よくない」という評価を下している。それは「自分がすべて」の学者でしかない。インド的なアプローチで人権を捉えると言っていた、インド人の博士の事件も同様の理由からおきているように感じる。

学問で本当に大切なのは批判的であることだ。批判的とはどういうことか。文句を言うこととは違う。自分の意見を立て、それを守っていけるかどうか、これが批判的であるという意味だ。

だから、指導者がいても、教授がいても、その意見になびく必要はない。ただ、そういう場合、自分の意見はこうです、と理由を言えるかどうか、それが批判的であるという意味だ。それを言うにはあなたは徹底した個人でなければならないのだ。

個人を捨てて教授になびいている学者がいるとしたら、それは首に鎖をつながれた狼と同じである。批判的に自分の意見を守ることを放棄しているからだ。

私が、その意味を身体で理解するのに5年の歳月が流れてしまった。今は、それが私のかけがえのない財産でもある。
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by kudo_koji_blog | 2007-04-03 07:25 | 議論

恥ずかしさを克服するために

アメリカのロースクールで、アメリカ人をはじめ、他の留学生も観察して、気づいたことは、「恥ずかしい」と感じる思いは誰にでもあるということだ。失敗したら、日本人同様、赤面する。自分が発表するときは、顔が真っ赤になり、声はかすれ、手は震え、汗は額から流れ落ちる。それは日本人に限らず誰にでもあるようだ。

日本人との違いは何か? 日本人は、そこで、「みんなの前で失敗した」とか、「もう恥ずかしくてそこには行けない」と永遠に思い、その人の行為を束縛してしまうことだ。

アメリカ人なども失敗すれば、恥ずかしいとは言うことは言うのだが、案外あっけらかんとしているように感じられる。それでも、また、挙手をして、挑戦してくるのだから、見上げたものだ。

私は、この行動の根底には、アメリカ人独自のプラグマティズム(実用主義)があるのかもしれない、と考えている。ここでいうプラグマティズムとは、物事を現実的に推し進めようという考えだ。つまり、これだけ高い授業料を払ってきたのだから、元を取らなければだめだ、という考えを持っているということだ。アメリカのロースクールやMBAの授業料は、私立であれば、1年間で、300万円を超える。この「これだけ高い授業料を払ってきたのだから、元を取らなければだめだ」という思想こそがアメリカ人を奮い立たせているのではなかろうか? 

また、もう一つ考えられるのは、アメリカ人の場合、日本人同様に恥の観念があっても、それは善悪の判断にまでは影響しないことだ。

「宗教からよむ「アメリカ」、森孝一(著)講談社選書メチエ」の著者森孝一氏によれば、アメリカ人の宗教の内訳は、プロテスタントが50数%、カトリックが20数%、東方正教会2%前後、ユダヤ教2%、イスラム教1%以下、と一神教が合計8割以上を占める。一神教においては、善悪の価値判断が自分の中にではなく、外(聖書などの聖典)に基準があるため、自分の感覚が善悪判断にまで影響することは極めて少ないのではないか、というのが私の意見である。

翻って、日本人は、行動を起こす前に「失敗したらどうしよう」とか、「みんなの前だと恥ずかしい」という思いが先立ち、結局は、実力が思うように出せないように思われる。

「恥ずかしい」と思った瞬間に、自分に尋ねてほしい。「誰にとっての恥なのか?」「実際に失敗してどうなるというのか?」と。自分だけが恥ずかしいのではないのだ。アメリカ人も恥ずかしいのだ。
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by kudo_koji_blog | 2005-07-31 15:32 | 議論

ジョークが使えない日本人

日本人というのはジョークが苦手である。だじゃれを言う人はいるかもしれないが、知性に富んだ発言で皆を大笑いさせるというのはないだろう。日本人のコメディアンも、下品なお笑いに徹しているのがほとんどで、有名人でも言葉だけで巧みに笑わせる人というのは、ほとんどいないだろう。テレビを見ている視聴者がこういうレベルのものを求めているということでもあるだろう。

先日、とある国の大使に聞いてみると、「日本人で面白い人はいるわけがない」と言っていたそうである。難しい試験に突破して、外交官になったとしても、海外では評価はほとんどないのであるから、これでは日本の外交がうまくいくわけはない。

ヨルダン人の親友に、「じゃあ、どこの国の人が面白いんだい?」と聞いたら、「エジプト人が最高だよ。ジョークを言う前にすでに笑ってしまうのだから」という答えだった。

私は日本人が、なぜジョークが言えないのかを説明した。「日本人の伝統的な宗教では、言霊(ことたま)という発想があって、意味しないことは発言してはいけないんだよ」と言った。友人もそれを面白がって聞いていて、納得したようである。

逆に、「ジョークを言う人たちの背景に何があるんだい?」と聞いてみたら、「ジョークを言う人っていうのは現実の生活や社会に納得していないっていうことさ。だから、ジョークを発して、笑い飛ばすしかないんだよ。現実は死や不幸がゴロゴロしているからね。日本人は幸せなんだよ」ということだった。

まさに納得する答えが返ってきた。ジョークを言う、言わない、というだけではなく、意外に深い社会的背景があることが分かった。

近年、様々な問題を抱える日本においても、いずれはジョークを言わざるを得ない時代がやってくるのではないだろうか。
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by kudo_koji_blog | 2005-06-25 16:53 | 議論

工藤浩司裁判所に召喚される!

先日、イギリスの裁判所から召喚状が届いた。といっても、驚くことはない。イギリス国民としての税金を払っていないというもの。日本人の私には関係ないものだ。

 私が新しいアパートに引っ越してから催促状が来ていたが、ほうっておいたら額がどんどんふくれあがり、10万円ほどになってしまったのだ。

 召喚状が来る1週間ほど前に、市役所に行き、外国人だということを証明して、税金を支払う義務を免除された。

 ところが、1週間後のそのとき、また、裁判所から召喚状が届いたのである。私は驚きをとおりこして、あきれてしまった。しっかりとした手続きをしたのに、この始末。

 ここではこのようなことが日常茶飯事だ。しかも、あなたが行動しないと損をするのはあなたということになる。人は主張するわけだ。

 イギリスに初めて来たときは2日に1度は誰かをどなりつけていた。あまりにもずさんなことが多かったからだ。

 結局、今回は市役所にまた通う羽目になりながらも、しっかりと説明し、難を逃れた。
 私は考える。召喚状をほうっておいたら、大変なことになっていたのだろう、と。
 ここでは行動して、発言するのは当然なのだ。それを改めて自覚した出来事だった。
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by kudo_koji_blog | 2005-06-18 17:10 | 議論

人を平等に扱うということ

先日、日本の教授と偶然出会うことがあった。ひさしぶりだったので日本語で話したのであるが、話し終わってからなぜか違和感を感じた自分がいた。

 何が問題なのかわからなかったので、話した内容をずっと追ってみてわかったのであるが、その方の話し方は上から下へ話す話し方しかしなかったのだ。

 その方は話すときに「あなたねえ・・・」という言い方をしていた。私は違和感を覚えたので、コミュニケーションを専門にしている人に尋ねてみると、「私もそういう言われ方をしたら話は聞く気にならないですよ」ということだった。私だけの勘違いではなさそうだ。

 「あなたねえ・・・」などと話す前に入れられる句に、まず私は辟易していたのだ。

私はその人の弟子でもなければ教え子でもない。そうであれば対等な人間関係であるべきだろう。そうであれば「あなたねえ・・・」などという上の地位の人が使う言葉を使うべきではないだろう。

 逆にいえば、そういった話し方しかできないというのはものすごく不幸なことなのではないだろうか。仮にその言い方を説教口調だとすれば、生徒からの刺激的な意見を取り入れる機会は激減する。生徒はだまって先生の言うことにうなずくだけになってしまうだろう。

 小学校などの教育は別として、大学以上の教育においては人は人として対等に扱われるべきである。これは言葉でいうのはたやすいがものすごく大切なことなのだ。それがなくしては、対等な議論は生まれない。

 私が英国にいて、教授と論文について議論するとき、よく言われることがある。「これはあなたの論文であって、私の論文ではありませんよ」。「指導する」などと言われるが、こちらでは「指導」どころではない。「テストする」に近い。主導権はこちらにあるのだ。会う頻度もどのような議論をするかも、すべてこちらが決める。だから私と教授の間に火花が散ることになる。まさに教育者としての実施訓練そのものだ。

 翻って、上に出た教授の例を考えてみよう。大切なのは真理の発見である。そのために平等な土台を築いて議論を喚起する。言葉の表現ひとつでその土台は一瞬に崩れてしまうのだ。教育者のもつ影響力ははかりしれない。 
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by kudo_koji_blog | 2005-06-07 01:56 | 議論