工藤浩司オピニオン 公式ブログ


世界を飛び回る日本人   工藤浩司のオピニオン  
by kudo_koji_blog
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工藤 浩司 (くどう こうじ)
1971年青森県十和田市生まれ。

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カテゴリ:社会( 33 )


2歳の子供に体罰をする人たち

私と妻の子育ても、山あり谷ありではあるが、2年が過ぎた。

自分の感想は「ああ、もうそんなに経ったのか?」という気持ちだ。

最初の数ヶ月は「もう少し寝たい」「明日は少しは長く寝てくれるかな」などと考えながらの毎日だった。少しでも長く寝てくれると、こちらも眠ることができる。でも、2~3時間ごとに起きてしまう、子供はそうはいかない。

結局、子供が長く寝るようになったのは、断乳してからだった。子供が1歳のとき、妻が、病気になり点滴をしなければならなくなり、授乳は無理になった。1年で断乳するのは少し早い気もしたが、いずれは断乳しなければならないのだから、それを期に断乳した。息子は3日間がんばった。それから、よく眠るようになった。

今、気がつくと、身体は以前より休めるようになったが、他の部分で手がかかるようになった。

2歳の子供は「魔の2歳」と呼ばれ、手がかかる。というか、手がつけられなくなるときがある。

これは自我の芽生えなのだが、自分の目の前で、他の人に迷惑がかかるようになるので、なかなか見過ごすわけにもいかなくなる。かといって、言い聞かせようにも言葉はあまり通じない。

2歳ぐらいの育児についての意見を見ると、軽い体罰をする人が多いのに驚いた。子供をコントロール(支配)したい親からすれば、手っ取り早い方法なのだろう。

しかし、自分が親になって考えてみると、体罰したところで、その行為をやめるかもしれないが、それは分別をわきまえているのではなくて、ただ単に、親を恐れているだけである。しかも、相手を叩いてもいいというような感覚を親から受け継ぐことになる。

親の役目は恐れられることだろうか。子供にとっては親は唯一の安心する相手だ。体罰をするのは短期的には効果はでるかもしれないが、長期的には問題が出るかもしれない。
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by kudo_koji_blog | 2012-12-03 22:16 | 社会

原発事故について

日本政府は過去数十年間にわたって、原発がいかに安全かを訴えてきた。

今回の原発事故で、日本政府や電力会社が語ってきた「安全神話」はもろくも崩れ去った。

日本政府は言う。「想定外のことが起こった」と。想定外のことを想定するのが、リスク管理というものだ。最悪のことを想定できないのは、そもそも間違った人々が、計画を推進しているからだ。

たとえば、スーパー堤防という計画がある。100年に一度来るかもしれない災害を想定して、土を盛りつけ、通常の堤防では氾濫してしまう状態のときでも、安全につくられた非常に独創的な考えだ。言わば、起こりえない河川の氾濫を想定して、事前に対処しようというものだ。石原都知事が推進していることでも有名だ。

話を元に戻そう。

福島第一原発の場合、そういった災害を想定していないようにしか思えない。本来作動すべき冷却装置等は津波で破壊されたといわれる。「想定外の津波」も想定してほしい。被害にあうのは現地に住む人々であり、近隣に住む人々であり、日本国民全体である。

福島の原発の事故に関しては明らかに人災であると私は考えている。地震や津波は防げないとしても、それに続く事故は防ぐことはできたのではないか。最悪の事態を想定して、施設を作っていない。そこが致命的である。

社会学的に見てみると、世界唯一の原子爆弾の被害国であった日本が、戦後、原子力の力を借りて、日本の経済的復興を担い、先進国となった。その日本が、原子炉が原因で、事故を巻き起こしたことは、日本に学習能力がないことを露呈しているように思える。

我々はチェルノブイリ事件で何も学ばなかったのだろうか。人間は他の事件から学ぶことはできないのだろうか。我々は違う道を進むべきだったのではないか。

もしかしたら、我々は、「神」を操ろうとしているのではないか。我々はそれに失敗した。それだけは確かなことだ。

これから、日本の国力は下降していく。これは今回の事故とは関係なく、そういう傾向になる。だが、下降していく場合でも、緩やかに下降しつつも、他国からは尊敬され、政治的な力を持ちつつ、豊かな国として存在し続けることだってできるはずだ。

西洋の国は経済力では日本より劣っている国が多い。しかし、国としての存在感や政治力は保ったままである。豊かさとはGDPだけでは計り知れないということだ。

今、人は言う。「停電が来るなんて信じられない」と。しかし、他国では毎日停電になっている国もあるのだ。そういう環境に慣れすぎてはいないか。そんなに電気は必要なのか。そういう環境を本当に我々は必要としているのか、もう一度考えてみてもよいと私は思っている。

日本の原発の危機は終わっていない。むしろ、悪化しているとさえ言える。

日本政府は最悪を想定して対処しているだろうか。我々は最悪を想定して準備しているだろうか。「むやみに危機感をあおるのはよくない」とは常套句だが、「むやみに安全をあおるのもよくない」のだ。

繰り返すが、私はこれを人災と見ている。

しかし、同時に、高度な技術力を持った国で起こった出来事は世界の原子炉を保有する国へのメッセージとしてとらえられるべきだと思っている。これほどまでに、被害の大きくなる力を持ったものを人間が、支配できるのだろうか。私には、イエスとは答えられない。
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by kudo_koji_blog | 2011-03-19 22:47 | 社会

東北地方太平洋沖地震について

3月11日の東北地方太平洋沖地震について、被災者の皆様に心からお見舞い申し上げます。

震災はどの国のどこの人が被害にあっても、悲しいことです。

私は東北出身で、被災地のほとんどに足を運んでいます。生まれ育った青森を含め、宮城や福島は生活した経験があり、その背景からも、馴染み深い場所で、友人もたくさんいます。

このたび、たくさんのメールや問い合わせを国内外かかわらずいただいています。一つ一つ返信することはできませんが、私も含め、東北に住んでいる家族は幸運にも無事だったことをお伝えいたします。

私には私なりの考え方がありますので、この震災に関する意見は別のところで発表していきたいと思っています。

2011年3月19日

工藤浩司
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by kudo_koji_blog | 2011-03-19 22:35 | 社会

海外版 オレオレ詐欺にあいました

何年も会っていない海外の友人からこんなメールが届いた。

I Hope you get this on time. My family and i had a trip to Spain for a short vacation, we were robbed on our way to the hotel we lodged, all cash,credit card and cell were stolen but luckily for us we still have our lives safe and our passport with us I want you to assist me with a loan of 1450 Euros to sort-out the hotel bills. I've been to the embassy and the Police here but they're not helping situation matters. I'm having problems settling the hotel bills and the hotel manager won't let us leave until we settle the bills. Am freaked out at the moment.

簡単にいうと、スペインで追いはぎにあって、財布もカードもなくしたので、1450ユーロのお金を送ってほしい、という。彼は、私の元生徒で、軍人だった。私にとっては貴重な存在だったので、なんとかしたいと本当に思った。

私は彼にホテルの電話番号を送ってほしい、とメールを送った。本人かどうか直接話して確認するためだ。アドレスは確かに彼のものだったが、どこか、信じられない気がした。i が小文字だったからだ。通常、I は大文字で使う。小文字で使うのはnaitve でくだけた表現をする人だ。「freaked out」?彼はこんな表現をメールで使うだろうか。

筋金入りの軍人が、そういう目にあうものか・・・とも考えた。しかし、家族が一緒か。私でも家族が一緒であれば、お金を差し出すだろう。だから、おかしくはない。

「あなたは本当に彼なのか」「私とあなただけしか知らない思い出を教えてほしい」とやりとりをした。

相手は「イズミルの大学での思い出がある」といって、早くお金を送金してほしい、という。

私の中で、心にブレーキがかかった。私が彼とあったのは、キプロスの大学であって、イズミルではない。

極めつけのメールを出してみた。「僕の子供を覚えているかい?」返事はなかった。当時、私に子供はいないからだ。

なんとか、フェイスブックで、彼のページを探してみると、彼の電話番号があった。国際電話でかけてみると、彼が出た。

彼は元気だった。誰かが、彼のメールアドレスを乗っ取って、詐欺を働いているということだった。あせっていた私は一安心した。

海外版のオレオレ詐欺。私が被害者になるとは思わなかった。何事も緊急に対応するのは良くないことだと再確認した。
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by kudo_koji_blog | 2010-11-10 00:29 | 社会

二極化現象を考える

ここ数年、雇用形態が二極化してきているようだ。

二極化とは雇用される人間たちが、一方では経歴・実力ともに備わった人間たちであり、もう一方では、新卒の人々も含めた経歴・実力がまだ備わっていない人たちの二つに分かれ、その間の人間たちが少なくなっていくことだと考えている。

経歴・実力が備わった人間たちは、企業で重宝される。即戦力で使える人材になるし、トレーニングなどする必要もない。そういう人種は、数年、会社にいればそれでいい。また、別の場所を求めていく。そして、新規の場所ではさらによい待遇で、雇用されることになる。

アグレッシブ(積極的)な会社では、新卒の学生を採用しないようになってきた。それは、トレーニングに時間と費用がかかるからである。そして、長期雇用が約束されないような社会になってきたので、新卒の人間を1~2年かけて育てたところで、転職しないとは限らない。

だから、新卒の学生を雇用する企業が少なくなってきているのだ。

新卒の学生のことを考えてみると、機会がないから、雇用されない。雇用されないから、実力や経歴が伴わない。ゆえに、企業からは魅力のない人間だと見られてしまうことになる。

これは問題ではないだろうか。

新卒の学生が育たない企業風土は、雇用の弾力性がなく、長期にわたって、拡大し、繁栄していくことはできなくなるのではないだろうか。一部の人間だけが、実力をつけて雇用市場を寡占していくような社会は、理想の社会ではない。チャンスは誰にでもあるべきだからだ。

日本は、「勝負」がテーマとされて、「勝ち組」だとかいう人たちが、もてはやされるような社会になってしまった。一方で、チャンスがない社会になってきた。新卒の人間たち、経験や実力がまだ備わっていない人間たちを受け入れる土台を国は推進すべきだと思う。
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by kudo_koji_blog | 2010-09-26 02:52 | 社会

value (価値)とprice(値段)の違いがわかる人・わからない人

以前、知人の女性の誕生日のお祝いに、夫が料理をしたことがある。とは言っても、親子丼とサラダだから、たいしたものしかつくれなかったらしいのだが、その人はとても喜んだそうだ。

誕生日といえば、なにやら上品なレストランで上品な料理を食べることしか頭にない人は受け付けない話かもしれないが、本人がとても喜んだのだから、価値のある話だ。決して、値段では割り切れない話である。

こういう人をvalue(価値)がわかる人という。わからない人をprice(値段)でしかものをみない人という。

value (価値)がわかる人は、世間の値段競争に動じない。値段が高いものに飛びつかないし、値段が低くても大切にしたりする。大切なのは本人にとって大切かどうかだからだ。価値は個人によって違う。だから、押し付けることも、他人が判断することもできない。だからこそ、面白い。

一方、price(値段)でしか、物事を判断しない人も増えてきた。price(値段)はどこでも一定だ。世間で取引される一定の値段でものを見る。100円のものはそれ以上でも以下でもない。それが、値段でものを見る人の頭の構造である。

また、値段でものを見る人は、それ以上のものには嫉妬するし、それ以下のものは卑下をする。まるで、自分が何かに取り付かれているようだ。資本主義も一つの宗教だということかもしれない。

冒頭の夫婦の話はとてもいい話だ。価値を大切にしている人たちだと思う。

周りをみまわしてみてほしい。いいレストランで食事をして、それがすべてだと錯覚している人。いいモノをもって、それがすべてだと錯覚している人。いい給料をもらって、それがすべてだと思っている人。値段でしかモノをみない人の姿である。

値段を知ることは悪くはないのだが、それだけではいささかさびしい。人生においては、お金以外の価値を見出すことのほうがもっと大切なのだ。
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by kudo_koji_blog | 2008-02-25 07:13 | 社会

安部首相辞任騒動を考える

先日、阿部首相が辞任を表明した。体調不良を理由に、すぐに病院に運ばれ、未だ、いつ退院するか不明だという。ストレスによる機能性胃腸障害が理由だ。

マスコミはこぞって、辞任の時期が悪いとか、無責任だと言っている。確かにその通りなのだが、矛先が違うのではないか。本人が辞めると言っているのだ。私は「お疲れ様」という言葉をかけてあげたいと思う。

私は安部総理があまり好きではなかった。今もそうだ。リーダーシップにかけるし、組閣にも問題があったし、選ばれた大臣たちにも問題があったし、本人の責任でもない問題が出てくるなど運も悪かった。しかも、コミュニケーションも下手だ。だからこそ、国民は参議院選で、自民党に反対したわけだ。

だが、在任時に批判する前提は「これからもがんばってほしい」という思いがあってのものだ。それがなくなった時点で、批判するのは意味がない。本人が辞めたほうがよい、というのだから、温かく受け入れてあげるべきだろう。

昔、「大衆の反逆」を記したオルテガという哲学者が、「衆愚政治」ということを提言した。20世紀は愚かな民衆たちが、支配する時代だということを言った。

われわれは衆愚政治をしてはいないか。批判のための批判をしているのではないか。有権者のエゴイズムなのか、正義なのか、考えてみるべき時期に来ていると私は考える。
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by kudo_koji_blog | 2007-09-19 23:08 | 社会

女性の発言を考える・・・悪しき民主主義の影響

先日、友人とその彼女とご飯を共にする機会があった。私の友達は男性側のほうで、女性のほうはその彼女という関係。

そこで、私が気がついたのは、その女性、テーブルでディナー中に、少しでも自分でおかしいと思うことがあれば、すぐに反論してくることだ。それは、相手方だったりすることもあるし、こちら側にそれが向いてくることもある。しかも、話題が日本の批判であったりするわけだ。それはある意味で、民主主義下の若い女性で典型的な反応だとも言える。

私は反論を試みるも、友人に遠慮して深追いはしない。あまりおかしすぎるのであれば、ちょっと意見を挟むが、基本的にはそのままにしておく。それが、友人へのリスペクト(敬意)でもあるからだ。

ところが、よく観察してみると、その女性は私が遠慮していることはわからないようだった。また、彼女から彼への反論で、私はやり場のない時間も過ごした。これは、ある意味で、民主主義下の女性の悪い部分を象徴しているように思える。「発言する権利がある」ということは「どこでも何でも言いたいことを言う」のとは違う。そのあたりの感覚がないようだ。これは、国際コミュニケーションではマイナスである。時に発言せずだまっていることも、賢いと判断されることもあるのである。

個人的な話になるが、私は妻が、私の友人の前で、私に反論してくるようなことはいい事とは考えていない。もしそういうことがあったら、友人がいなくなった後で、「あれはよくない」とたしなめることだろう。なぜなら、私にも面子というものがあるし、友人からのリスペクトもあるからである。

同様に、私が妻の友人と会っているときは、いちいち、目くじらを立てて、妻を追い込んだりはしない。それは私が妻と彼女の友人関係に対して、リスペクトを払っているからである。

東洋的だと言ってしまえば、それまでであるが、ここは大切なことだと思う。そういったリスペクトを大切と感じてくれる女性でなければ、男性の前で黙っていることをすべて「負け」と捉えてしまって、扱いにくい。必至になって反論していく人を見ていると、哀れとすら感じることもある。

最後に、西洋でも、やはり教育されている女性は人間関係を気遣って発言をしてくる。言いたいこともがまんしたり、気を使ってくれたりするような感覚は確かに存在する。こちらがまずいご飯をつくって、出したとしても、「おいしい」などと言って、全部平らげようとした人も本当にいる。そういう人のほうが、意外にもコミュニケーションはしやすいのだ。

コミュニケーションにおいては極端な気負いは禁物である。ただただ、発言すればよい、というものではない。相手が本当に何を欲しているか必至で考える。相手がこちらの批判を期待しているときには、どんどん発言し、そうでないときは発言せずに話を聞く。そのTPOをわきまえることが、機転の利いた楽しい会話を作りだす。

最近、気がつくと、私よりも相手のほうがより多く発言していることに気づく。時には8:2ぐらいの割合のことがよくある。それでも、安心して話せるというような感覚が生まれているのだろうか。気負わなくても、うまくコミュニケーションはとれていると私は考えている。
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by kudo_koji_blog | 2007-06-03 05:21 | 社会

学術雑誌に見る日本の閉鎖性

先日、論文を書いたので、日本の法学雑誌に投稿しようと思い立った。そこで、いろいろとそれぞれの大学にある法学雑誌のウエブサイトを見てみて大変なことに気がついた。

論文が公募されていない、ということ。アメリカの法学雑誌はほぼすべて公募してある。だから、どこの学者が投稿してもよいし、在学中の生徒でもよい。国連の職員でもいい。限定はない。それが公募の意味だ。もちろん中身だけが勝負とは言い切ることはできないが、基本的にはテーマとその質で決まる。

論文が公募されていない、ということはどういうことか。論文の質が要求されていない、ということと同じ意味と解釈してよいのではないか。

とある雑誌の係りの人に電話で連絡を取った。その感想は「無理だと思います」ということであった。もちろん私の論文を見ることもない。雑誌はその学校の教員が書くためのものだという。

生徒が書く場合はその担当教授が、共著として入っていくのが普通ということだ。私は耳を疑った。

論文に関して、他の人の手が入ることはある。そういう場合はお礼という意味で、「The author thanks to Mr/Ms ...for his contribution of....」などと書き、どういった部分に関して、援助をしてもらったかを書く。だが、文責は本人にある、という趣旨のものを書く。それ以上でも以下でもない。

共著など簡単にするものではない。なぜなら、二人とも内容に責任を持たなければならないからだ。

話は変わるが、外国人である私の親友が、とある大学の教員に応募しようとして電話をかけた。答えは、「We don't accept external applications. (私たちは外部から願書は受け付けません)」と無碍に断られてしまった。

私よりも数倍頭脳明晰なその人間は、これでその大学で教えるという機会をあきらめた。大学の理念であるはずの、自由・平等の尊重もあったものではない。

大学にとってこれほどもったいないことはない。そして、これは日本にとって損失といってもよい。能力のある人間に機会が与えられないのだから、それはよい教育を放棄しているのと同じことだ。それは将来の生徒にとってよくないことではないか。

閉鎖的な体質はどんなところにも現れる。どんな主義主張をうたっていても、そこに人が介在する限り、それはなくならない。それに人々が気づくのはいつになるのだろうか。
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by kudo_koji_blog | 2007-04-13 08:24 | 社会

恋愛結婚を模索する人たち

先日、カウンセリングを本格的にやっている人と話をした。彼もよく知り合いの人の相談を受けるらしい。最近、女性から悩みの相談を受けることも多いらしい。そういう時、本人には言えないが家庭の悩みで共通していることがあるという・・・「あまり好きではないままに結婚してしまう」ということ。

実際には生活しているうちに、嫌悪感を覚えるようになり、自分の夫の下着を一緒に洗えなかったり、はしで摘んで移動させる、などというものも、あるという。

好きでもなく結婚すること。そこが問題の根本にあるという。「それでは致命傷ではないか?」という私の質問にカウンセラーは黙って頷いた。

それはつまり、世間体であったり、お金であったり、地位や名誉のためであったり、さらにはなんとなく、という程度の理由でした結婚あろう。

今、結婚して悩みを持ち始めた30代、40代の世代は、完全には自由ではないが、ある程度のものが保障された、非常に不安定な世代である。今であれば、30歳を越えて結婚してもそれほど騒がないのかもしれないが、10年前ぐらいであればまた違う。世間体や見え、ほかの人の動向。そういったもので結婚してしまった人も多い。女性であれば、さらにそのあせりは強かっただろう。

実はこの問題、「好きではなく結婚したこと」だけではなくて、「中途半端に自分の自由意識を持ったことにある」と考えている。「中途半端に自分の自由意識を持」つとはどういうことか。自分の感情といいつつも、テレビや雑誌に踊らされた結婚観に左右されているということだ。

私もさまざまな話を見聞きするが、本当の大恋愛をして結婚したなどというのは少ないような気がする。あとは「恋愛」にかこつけて、「恋愛ごっこ」をしているだけだ。それではお見合い結婚をしていたほうが、まともだったのではないか。

日本ではお見合い結婚が恥ずかしいなどという感覚があるが、この世界、今だに見合い結婚のようなものでしか結婚しない民族や国家もある。伝統的なイスラム社会は相手が好きとかそういうことには重きを置かない。しかも、それで問題は出ることはない。かつての日本がそうだったように、結婚の後に愛が来るものだとされているのだ。時間がたっても、それを維持していける土台があるのだ。

本来は日本に根強くあったお見合い文化も恋愛結婚が中心になってきた。その前提として、われわれは愛情を当然のものとして受け入れてきた。だが、そこには多くのハードルが存在している。

家族を作っていくという行為は愛情とは別次元のものだ。愛情はもちろん必要なのだが、それだけでは結婚を続けることはできない。恋愛はたった二人だけのものだが、結婚するとお互いの親や親族も関係してくる。愛情の裏返しで、少しのけんかですぐ分かれてしまうカップルもいる。

愛情が中心になり、独立することによって、結婚じたいの意義が薄れてきた。究極になれば、結婚をする意義がなく、彼氏と彼女で十分となる。なぜなら、大切なのは彼・彼女の気持ちだけとなりうるからだ。結婚という言葉で拘束する意味がなくなってきはしないか。

欧米流の恋愛主義が、すばらしいものとされて紹介されているのをよく目にするが、そこには短期的な愛情がなくなったらすぐに分かれてしまうという現実があることを知っておくべきだ。

話は元に戻そう。上に話をしたカウンセリングを受けた女性たちには、「自分が好きではなく結婚した」などということは指摘されない。そうされても、受け入れないし、意味がないからだ。カウンセラーの話を聞くことによって、自分がいやされていく。その数日後「またがんばってみます」というように変わっていくことも多いと聞く。情報に惑わされず、結婚において、もっとも大切なものを気づいてほしい、と思うばかりである。
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by kudo_koji_blog | 2007-01-27 02:45 | 社会